結婚をした。
といっても何が変わるわけじゃない。特に結婚式に呼ぶべき人が居なかったので二人で教会−地元だけど少し遠い所にある、歴史を感じるそこが好きだった。記憶を失ったときに、義父が私を保護してくれたのも、その教会だった。あのときの父の言葉を忘れない。−で愛を誓って、ご飯を食べてそのまま正守の車で帰ってきた。おそらく大学で知り合った友人などに言わせれば『ありえない』『あっさりしすぎてる』などと言われるだろうな、とぼんやりといつもと同じ部屋の天井を眺めた。
「そんなに何かが変わるわけじゃないね。」
「急に変わったら困るだろ。」
憮然とする私を笑う男の指も声も意地の悪さも何にも変わらない。そう言ってやると、男はそういうお前にこそ俺に対する優しさが見えない、とやはりからかう様に言った。
「私の優しさが判らないだなんてこのハゲ。」
「おいおいハゲは酷いな。俺のは坊主だ。」
「将来はげても困らない髪型よね。」
怒るぞ、と笑ってベッドの中で腕をとられた。でもまったく怖くないのは、今日は私たちの結婚記念日で、いつもと同じだけれどもやっぱりいつもと違う日で、男の顔がとても優しい笑顔だったからだ。
「怒ってもいいよ。」
私もつられて笑いながらキスをした。
「墨村良守!」
町を歩いていると、突然大声が響いてきた。久しぶりに聞く自分の本名に、一瞬わからなくてぼぅっとしていると肩をつかまれる。乱暴だな、と振り返った先には見覚えのある人がいた。端整な顔立ち、服越しにもわかる締まった体は表の仕事では得られないものだ。こんなに大声で話す人だっけ。と思いながらでもすぐに誰かわかった自分に笑ってしまう。やはり自分はひどい嘘吐きだ。
「なんで何でこんなところに居るんだ。」
怒ったように(実際顔にはあまり出ないが怒っているのだろう。)強く肩をつかまれる。こんなに乱暴に触られたのは何年ぶりだろう。そっと肩に置かれている手を取って、握った。ここじゃ目立つから。と無理やり押し込むように連れ立った喫茶店で、コーヒーを二つ頼む。憮然とした表情の翡葉はどうしてこんなところに居るんだ、と繰り返した。もう正直に話してしまおうか。
「あいつのところに居るんだ。」
「あいつって、・・・頭領のことか?」
「うん。」
「なら何故隠れてる。何故家に帰らないんだ。」
今にも席を立ち上がりそうな男を押しとどめて、重ねるように記憶喪失だったから、と言えば翡葉は二度瞬きをして、呆けたような顔になった後、やはり納得がいかない。と眉間に皴を寄せた。
「俺のことが分かるだろう?」
「だったから、って言っただろ。もう違う。正守は今だに俺が記憶喪失だって思い込んでると思うけど。」
コーヒーはひどく苦かった。翡葉の目が、自分の左手に移るのが分かった。そこになにがあるかも知っている。自分には眩しすぎる、蛍光灯に当たって光る銀色。
「・・・付き合っている奴が居るのか。」
だから、帰らないのか。そう続きそうな言葉を察して、でもゆるく首を振った。
「結婚したんだ。籍は出せなかったから、形だけだけど。」
「出せなかった、だと?」
なんて厄介な兄妹だと、声にならない声が聞こえてくる。彼は知っているのだろうか。男の持つ対の指輪を。それともあの男の下で働いているから、どんな小さな台詞にも隠されたものを読み取ることができるのだろうか。自分たち兄妹を知っていたから、なおさら。出せなかったんだ、だって俺たちは兄妹だからといえば、ぐぅっと押し殺しきれなかったくぐもった声が小さく響く。
「幸せになどなれないぞ。」
「知ってる。でもいいんだ。」
コーヒーが苦い。まっすぐ翡葉を見返すと、彼の戸惑った瞳に反らされてしまった。
「いいんだ。あいつを好きなことが罪なら、俺は喜んで罪を被るよ。俺はひどい嘘吐きだから、地獄に落ちても後悔はしない。」
翡葉はそうか、と言って席を立った。コーヒー代を机において、さよならも言わずに去っていくから自分はその背中を追うだけだった。口の中で台詞を反復する。そうだ俺は喜んで罪を被ろう。後ろ指を差されよう。後悔するのならば好きになってしまったことではない、あの男を巻き込んでしまうことだ。
ふと心に義父の言葉がよみがえる。
『よし、お前はいったい何を神様に懺悔したかったのだろうね。』
その時はあいまいに笑うことしか出来なかったけれど、今ならわかる。自分はあの男に、小さな救いを求めてたのだと。ずっと救われたいと願っていた。叶えてはいけないと思っていたこの気持ちと共に。
たぶん翡葉は、誰にもいわないでくれるだろうな。と予感めいたものを感じながら席を立った。置かれていたコーヒー代が二人分だったのに苦笑する。代金を払って外に出ると、気持ちの良い風が頬をなぜた。見上げた空は、遠く青い。
(もう、春だ。)
歩き出した先に何が待っているかだなんて分からない。でも死ぬまで歩いていこうと踏み出した一歩は、思ったよりも軽やかだった。
きっと春は来る