いつもの時間、いつもと同じく鳴る携帯のアラーム。
携帯の持ち主は手馴れた手つきでアラームを止めた。
「ずっと一緒にいられたらなぁ…」
愛しい人の呟き声。
「何か言いましたか?」
きっと独り言なのであろうその言葉に反応してみれば、
その人物は勢いよくこっちを見て顔を赤くする。
「い、いや、何でもない!じゃあまた明日、おやすみ!」
鍵と黒いヘルメットを持ち、慌てて部屋を飛び出した。
数分後、外から聞こえるバイクのエンジン音。
いつもと同じ
PM10:30の別れ。
時間制限など無粋なだけで
日曜日のPM6:00。
日曜の大学は静かだ。
一部の生徒が講義や研究、サークルの為に訪れてはいるが、普段の大学と比べれば数段静かで。
その校内を慣れた足取りで歩く。
普段はあまり行くことのない音楽学部の校舎。
その静かな校舎で微かに聞こえるピアノと歌声。
流れるような美しいピアノの旋律。
聞き惚れてしまうような綺麗なテノールボイス。
この声は間違いなく彼のものだ。
早く会いたくて、音の聞こえる方へ足を速める。
進む度にはっきりと、大きく聞こえてくるメロディ。
本当に勿体無い。
心からそう思った。
これだけの音楽センス、音楽学部に入っていれば一、二を争う程の実力だったであろう。
事実、今いる音楽学部の生徒よりも才能も実力もある彼に、学部を変えないかと、
音楽学部教師のヴァン・グランツが熱心に口説いていると聞いた。
…もっとも、本人は断り続けているみたいだが。
目的の教室の前に到着した。
中からはまだ演奏が聴こえていたが、どうやらもう終わるようだ。
音が掻き消されるのが勿体無くて、極力静かにドアを開ける。
ピアノを奏でながら歌う青年はこちらに気付いているようだったが、演奏を止めようとはしない。
窓から差し込む夕日。
その光で青年の金色の髪が赤く照らされる。
一枚の絵画のようだ、と、
らしくもなく、そう思った。
演奏が、終わった。
訪れる静けさ。
そこに青年の声が響く。
「終わったのか?」
先程の歌っている時の美しい声とは違う、しかしどこか心地の良い声。
「ええ、終わりましたよ、ガイ」
ゆっくりと近付けば、青年…ガイは静かにピアノを閉め、立ち上がった。
「先生は大変だな、日曜まで仕事で」
「そういう生徒の貴方も昨日まで山のようなレポートと戦っていたのでしょう?」
そう言えば「まあ、そうなんだけど」と言ってガイは苦笑する。
「しかし、勿体無いですねぇ」
突然の言葉にガイは意味がわからないらしく、首を傾げた。
「何が?」
「貴方の音楽センスが、ですよ。歌、ピアノ、ギター、ヴァイオリン…
全てがトップクラスの才能と実力を持っているというのに進んだ道は工学部。
音楽学部の先生方が喉から手が出る程欲しがっているのが分かりますよ」
その言葉にヴァン・グランツを思い出したのか、困ったように笑って頭を掻いた。
「いや、音楽はいつでも出来るからな。それに」
ガイがこちらを見る。
その青い瞳は輝いていて、
酷く、綺麗に見えた。
「機械弄ってるの、好きだからさ」
眩しくさえ感じる笑顔。
私はその笑顔が堪らなく好きなのだ。
ガイの笑顔につられて、私も自然と笑みがこぼれた。
「そうですか」
「ところで先生、今日は何の用なんだ?態々休みに呼び出したりして。しかも歩いて来いだなんて」
普段使い慣れていないバスを使って大変だったんだぞ、と文句を言う目の前の青年の腰をグッと引き寄せれば
顔を赤くして面白いくらいに慌てだす。
「な、な、何す…!」
「ガーイ。名前で呼んでくれないんですか?」
「学校では呼ばないって決めただろっ!は、離してくれ!もし人が来たら…」
「来ませんよ。…仕方ありませんねぇ。今はこれで良しとしましょう」
チュっと軽く唇に口付ければ、彼は更に顔を赤くして自分を睨み付けてきた。
しかし、その睨む姿さえも愛しくて。
「そんな可愛い顔して睨んでも無駄ですよ。さ、荷物を持って出て下さい。
連れて行きたいところがあるんです」
色々と文句や訊きたいことがありそうな顔をしているガイを急かして教室から出る。
人気の無い廊下。
本当は手を繋いで歩きたかったが、それはガイが許してくれないだろうと思い、諦めた。
ガイは大学では絶対に名前を呼ぼうとしない。
それどころか会うことも極力避ける。
教師と生徒、そして同性愛という「普通」ではない恋愛を隠す為なのはわかっている。
それ故か、大学では会えない分、大学以外で二人っきりで会える時間をガイはとても大切にしている。
PM10:30の別れを惜しむ位に。
全く、本当に可愛い恋人ですね…。
そう思い、ガイに気付かれないように、口元で笑った。
「さ、着きましたよ」
車を止めて、降りる。
エスコートするように助手席のドアを開けてガイを降ろせば、
それが恥ずかしいのか頬が赤く染まった。
そして見慣れない風景に辺りをキョロキョロと見渡す。
「ジェイド、ここ…」
「こっちですよ、ガイ」
ガイの言葉を遮り、目の前にあるマンションにガイを招く。
玄関に入って真正面にあるエレベーターに乗り、最上階へ。
その間、ガイは初めて来る場所に不安なのかソワソワしていて、
その姿も可愛いと思う私は、かなり重症だと思った。
「どうぞ」
最上階にある一室。
鍵を開け、ガイを招き入れる。
「ここ…」
「新しい家です」
え、と声を出し、驚いた顔でガイは私を見上げる。
驚いた為か、いつもより大きくなっている青い瞳が私を凝視する。
「買ったのか?」
「はい。今日はこの家を貴方に見せようと思って呼んだんです」
まだ新しく綺麗で、広めの3LDK。
引っ越してきたばかりなので、まだ生活感のないその部屋をガイは物珍しそうに周りを見渡す。
暫くそうしていたが、あまり見ては失礼だと思ったのか、ドアの閉まっている部屋は開けようとせず、
リビングにある大きめのソファに大人しく座った。
「なんだか見慣れない部屋って落ち着かないな…」
「ははは、今日は私がご飯を作りますから、ガイはそこに座ってテレビでも見ていて下さい」
そうさせてもらうよ、と言ってガイは近くにあったリモコンでテレビを付け、チャンネルを変え始める。
そのどこか所在無さげに座っている姿に微笑みつつ、私は晩御飯の準備を始めた。
今日は彼の好きな魚料理にしますかね。
まだあまり食材の入っていない冷蔵庫からサーモンを取り出し、
熱したフライパンにたっぷりのバターを落とした。
ピピピピピピピピッ
「あ…」
聞き慣れた携帯のアラーム音。
PM10:30の別れを告げる合図。
その音を聞いて、先程まで他愛も無い話をして笑っていたガイの表情が途端に曇っていく。
携帯を開き、音を止める。
「じゃあ、俺帰るな。今日は晩御飯、ありがとう」
寂しそうに笑い、帰ろうと背を向ける。
その腕を、届かなくなる前に、素早く掴む。
男にしては細い、腕。
いつもと違うその行動にガイは驚いた顔で私を見た。
その顔には戸惑いが浮かんでいる。
「ジェイド…?」
「ガイ、貴方に見せたいものがあるんです」
これからが本当にガイに見せたかったもの。
細い腕を掴んだまま、閉められているドアの前へ移動した。
そして、そのドアを開ける。
真っ暗な部屋。
ドアのすぐ横にあるスイッチを押す。
電気が、付いた。
「…!」
ガイの目が、信じられないものを見ているかのように、大きく見開かれていく。
「ジェ、イド、これ…」
「ええ、貴方の家にあったものです。貴方が学校にいる間に運んでもらいました」
広めの部屋にはベッド、机、本、タンス、様々な機械…
全てがガイの家にあったものだ。
「今日からここが、貴方の家です」
「え…?」
ガイは驚きというよりも呆然といった感じの顔をして止まっている。
当然だ。
いきなり連れて来られた家、そこに自分の家にあったものが運び込まれていて、
突然「今日からここが貴方の家です」なんて言われて平然としていられる人間などいないだろう。
ガイ以外には見せたことのないであろう笑みをガイに向ける。
そして腕を掴んでいた手をガイの手に移動し、指を絡めた。
「もう、10:30にアラームをセットしなくてもいいってことですよ」
もう10:30に別れを告げることもない。
もう10:30にバイクを走らせて、家に帰ることもない。
「じゃあ、帰らなくていいのか…?」
「はい」
「10:30過ぎても一緒にいていいのか…?」
「はい」
空のような瞳が潤んで、海のように揺らめく。
握る手に力が、入った。
「ずっと一緒にいたい、と言ったでしょう?」
「まさか、それで…?」
「はい、私も貴方と一緒にいたかったですしね」
以前、一度だけ別れ際にぽつりと呟いた言葉。
その言葉を忘れるわけがない。
「貴方の楽器も隣の部屋に全部運んでありますよ。
…後で一曲、何か弾いてもらってもいいですか?まだ寝るまで時間がありますしね」
タイムリミットはもう無くなったのだ。
「っジェイド…!」
「っと」
突然抱きついてきたガイを抱き止め、その美しい金糸に顔を埋める。
すっきりとした、爽やかなソープの香りがする。
目をゆっくりと閉じ、その匂いと、腕の中の体温を幸福感と共に感じた。
昼はピアノを聴いたから、今夜はヴァイオリンの曲をリクエストしようか。
そして、その後はガイを抱き締めながら眠りにつこうか。
PM10:30に縛られることのない生活が始まる
二人の家。
PM10:30に部屋から聞こえるのは、携帯のアラームではなく、
美しい旋律。
「ジェイド、今日は何の曲がいい?」
「そうですね、今日は…」