丑三つ時より少し前、烏森に行く前に、
誰にも気付かれぬよう、電話をかけた。


耳に直接響くコール音。

3回目のコールが鳴り終わった後、電話の持ち主の声が聞こえた。



『もしもし?』

「兄貴?俺だけど…」

『良守か、どうした?』

外にいるのだろう。
風の音が時々聞こえる。

「うん、あのさ…」






それが数時間前の話。




















仕事が終わり、部屋に戻って来て、
一つ、溜息を吐いた。

いつもより疲れた気がする。
それは今日知った、事実の所為だろう。

その疲れに逆らう気力も無く、布団の上にぺたりと座り込む。
冷たい布団が気持ちいい。
この気持ち良さに誘われるまま、横になって寝てしまおうかと思ったその瞬間。


後ろから何かに抱き締められた。


大きな手が、自分の腹部で組まれ、
肩口に重みが乗る。

澄んだ、森の香りがした。


「びっくりした…」
「ああ、ごめんごめん」


少しも気持ちの籠もっていない謝罪をして、
男は一つ、米神にキスをする。

その感触に目を閉じつつ、
後ろからの心地良いぬくもりに誘われるように、
後ろに体重をかけた。

大きな体と広い胸元に小さな体は簡単に包まれてしまって。
上に顔を向ければ、先程電話をかけた男の、食えぬ笑み。


「今日来るとは思ってなかった」
「そりゃあ、あんな電話貰えば急いで来るに決まってるだろう」



そう言って正守は優しく、そっと俺の腹を撫でた。



「病院に行ってわかったのか?」
「いや、最近体調おかしかったから、今日検査薬で試してみて…」
「そうか、多分間違いないとは思うけど、
念の為、明日病院に行こう。俺も一緒に行くよ」
「ん」

大きな手が、腹をもう一撫でした。
その愛しそうに撫でる手付きに思わず笑みを溢す。

「暫くは大丈夫だと思うけど、つわりとか症状が出てきたら
仕事も休んだ方がいいな」
「皆には言うのか?」

んー、と考え込んでいる声が近くから聞こえる。
腹を撫でる手は止めずに。

「良守はどうしたい?」
「別にどっちでもいい」

家族に言おうが言うまいが、関係無い。
別に周りに理解されたいわけでもないし、
祝福されたいわけでもない。
だからどっちでもいいと、そう思った。

未だ腹を撫でることを止めない手の上に、
俺は自分の手を乗せた。

「なぁ」
「うん?」
「嬉しい?」

正守の方を向いて、瞳を見つめながら問う。
その質問に男は目を細めて、さも嬉しそうに口を開いた。



「嬉しいに決まってるだろう?」


だって、これで良守は本当に俺のモノになったんだから。






「良守は?」

俺も笑顔で答える。

「俺も嬉しい」


だって、これで兄貴は本当に俺のモノになったんだから。







二人でくすくすと笑い合う。
静かな空間に二人の静かな笑い声だけが響く。

「どうする?家出て、二人で暮らす?」
「どっちでもいいよ」




正守といられるなら、何処だっていいよ。









二人の手の下、新しい命だけが、二人の声を聞いていた。





 

 

仕掛けられた罠

 

 

 

その罠はとても甘美で、幸せだった。