運良く、というべきなのだろうか。
あの人に全てを奪われた日。
その数日後には
想いを告げる、愛の日が迫っていた。
そう、聖バレンタインデーが。
遥か彼方の人
<後編>
お菓子作りは昔から好きだったし、得意だった。
今日という日ほど自分のこの趣味を有難いと思ったことは無い。
嫌というほど街中に溢れかえっているチョコレート。
その中から製菓用のビターチョコレートを購入し、
一人分の小さなチョコレートケーキを二つ焼いた。
一つは味見用だ。
ケーキは焼きたてだと、逆に味がわからくなる。
少し冷めてからの方が味がしまって、美味しくなるのだ。
軽くケーキを冷まして、見た目の悪い方…要するに味見用の方に
フォークを刺して、口に放り込んだ。
「…ん、美味い」
上出来だ。
程好い甘さにしっかりとしたチョコの風味。
これならばあの人にあげても恥ずかしくない、と顔を綻ばせる。
最後に用意していたシュガーパウダーを降り掛け、完成。
白にピンクの装飾が施された可愛らしい箱にケーキを入れ、
外に出た。
オレンジ色に染まった空。
丁度良い時間だ。
良守はケーキ片手に、時音に教えてもらった道を歩いていった。
あの日、一目惚れしたと、そう言ったら時音は本当に驚いて、
けれども嬉しそうに笑った。
時音はいつだって本当の姉のように良くしてくれて、
俺が男のような格好をして、男のように振舞う姿を見て、いつも心配していた。
折角可愛い顔してるのに、といつも残念そうに言っていた。
そんな俺が恋をしたということを、時音は心から喜んでいるようだった。
数日前、バレンタインデーに告白しようと思うと告げた時、
時音はあの人の甘味に対する好みや、いつも通る道や時間など
色々教えてくれて、
そして今日、「頑張るのよ」と、背中をポンと叩いてくれた。
その教えられた道を今、歩いている。
時音の言う事があっているならば、
そろそろこの道を通るはず。
どうしよう、どう渡そう。
なんて話そう。
受け取ってもらえるだろうか。
一歩一歩、歩を進める度に心臓は壊れそうなくらいバクバク鳴って、
今にも死んでしまいそうだ。
こんなにも緊張したことは今まで無い。
少しでも自分を落ち着かせようと右手を自分の胸に当て、
息をゆっくりと吐いた、その時。
「ずっと好きでした、受け取って下さい…!」
少し離れたところから女の人の声が聞こえた。
反射的にその声のする方を向く。
すると。
「…!」
「すまないけど、受け取れないよ」
あの時は遠くて聞こえなかった声。
初めてあの人の声を聞いた。
低く響く、『男』の声。
あの時と同じく、良守の動きは止まった。
ずっと想っていたあの人が、いた。
綺麗な女の人と向かい合って。
「せめてこれだけでも受け取って…」
「すまない、受け取る事はできないんだ」
誰が見ても綺麗だと言うであろう女の人を振る正守。
ああ、やっぱり。
あの人くらい格好良いと、もてるんだな。
あんな綺麗な人に告白されても振るなんて、
俺なんかが告白したって…。
良守は自分の姿を見た。
あの女の人と違って自分は少しも美人でなければ
体も成長していなくて、まだまだ子供で。
時音はよく可愛いと自分のことを言ってくれるが、
どこも可愛くなんて無い。
髪は短くてくせっ毛で、男みたいな言葉使いに服装。
背も低くて、何の取柄も無くて。
嗚呼、酷く惨めだ。
なんて、身の程知らずだ。
気付いたらその場から駆け出していた。
紅に染まる公園で、良守はベンチに座っていた。
膝の上にはケーキの入った箱。
それを見つめ、動かない。
告白する前に振られた。
振られたわけではないけれど、
振られたも同然だ。
大体、冷静になって考えればわかったことだ。
大学生のあの人が
中学生の餓鬼を相手にする筈がないのだ。
何の取柄も無い、餓鬼があの人とつり合う筈が無い。
隣に並んで歩ける筈が無い。
あの人には、さっきの女の人のような、
綺麗な女の人がよく似合う。
ああいう人こそ、あの人に相応しい。
自分では、どう頑張ったって、
どう足掻いたって、無理なのだ。
好きだと、告げる事無く
この恋は終わってしまった。
涙は出なかった。
ゆっくりと立ち上がり、ベンチの隣にあるゴミ箱の前に立つ。
そしてケーキの入った箱を持ち上げ、ゴミ箱の中に捨てようとした。
ケーキと一緒に自分の想いを捨てようと。
さようなら。
初めての恋。
「それ、捨てるの?」
低くて静かな声が一面真っ赤に染まった公園に響く。
少ししか聞いたことがない声だけど、すぐに誰だかわかった。
信じられない気持ちで、声のした方に顔を向ける。
死んだように静かだった心臓が、
また激しく鳴り始める。
赤い世界の中、あの人が立っていた。
「それ、ケーキでしょ?捨てるなんて勿体無いよ」
こちらに一歩ずつ近付いてくる姿に、
目の奥がじわじわと熱くなってくる。
自分は馬鹿だ。
こんなにも、姿を見ただけで泣きそうになるくらい好きなのに。
そんな想いを捨てれる筈が無かったのだ。
全く知らない女が泣き出したら不審に思うだろう。
グッと目に力をいれて、涙が流れるのを無理矢理堪える。
物の色もわからなくなるくらいの赤い夕日だ。
きっと自分が涙目なのも赤い世界ではわからないだろう。
男はついに自分の目の前にまで来て、
俺を見つめてくる。
俺は視線を逸らし、ケーキの入った箱を見た。
「勿体無く、無いです」
緊張で、涙で、少し声が掠れた。
「誰かにあげるものじゃないの?」
そうです。
貴方に、
あげるつもりでした。
「もう、いいんです」
無理矢理、笑顔を作った。
笑わないと、涙が零れてしまいそうだったから。
「じゃあさ、それ、俺に頂戴?」
「え…?」
ケーキの入った箱を大きな手が掴んだ。
そして自分の手から取っていった。
男はベンチに座り、箱を開け、ケーキを取り出す。
「美味しそう」
一言そう言って、素手でケーキを掴み、
大きな口で一口、食べた。
「うん、凄い美味しい」
こっちを見て、微笑む。
その笑みに、俺はとうとう泣いてしまった。
もう、
もう満足だ。
この恋が叶わなくてもいい。
この人と話せた。
この人が笑ってくれた。
この人がケーキを食べてくれた。
それだけで、俺は満足だ。
ぼろぼろと零れる良守の涙を、正守は指で拭う。
良守は触れられたことに驚き、目を見開いた。
涙でぼやけた視界に映ったのは
正守の優しい笑み。
「俺ね、君からのチョコ、待ってたんだよ。良守さん」
「な、んで俺の名前…」
「時音ちゃんからよく聞いてたから。時音ちゃんと一緒にいる姿も何度も見てたし」
君は気付いてなかったみたいだけどね、とまた正守は笑う。
信じられなかった。
この人の言ってる言葉全てが夢のようだった。
いや、この人と話をしていること自体が夢のようだ。
夢なら、どうか覚めないでくれ。
優しい、温かい笑みが、瞳が、俺を見つめる。
「俺、君のことが、好きなんだ」