アグライア
〜そしてフィンは神に口付けた〜
「ジェイド、愛してる」
血溜まりの中、彼は愛の言葉を紡いだ。
その時の彼はとても、
とても美しい笑みを浮かべていて。
陽だまりのような、温かく、
それでいて穢れのない笑み。
ああ、何故貴方は血を流しながらも
そんなに綺麗に微笑むのですか。
どんどん流れていく血液に、
発光し、薄くなっていく体に命が消えかかっているのを悟る。
今、彼の手を掴まなければ。
彼は消えてしまう。確実に。
大地を蹴って、彼のもとに走る。
なんで、
なんでこんなに体が重いんだ。
まるで水の中を歩いているようだ。
足を前に進めても進めても、
少しずつしか進まなくて。
思うように進まない体に苛立ちと焦りが募る。
彼は、今にも消えそうなのに、
何故私はすぐに傍にいけないのだ。
懸命に、必死に足を前へと運んだ。
もう、彼まであと少し。
手を伸ばせば彼に届く。
彼の手を掴んだら、
消えないように、離れないように
彼を抱き締めよう。
そして愛を囁いて、口付けるのだ。
けれど、伸ばした手は
彼に届く事はなかった。
「…っ!」
目が、開いた。
いつもの執務室。
机に突っ伏している自分。
どうやら仕事の途中で寝てしまっていたようだ。
枕代わりにしていた腕を退ければ
少し皺になった書類の姿。
そして、その枕代わりにしていた腕には
水が染み込んだ跡。
先程まで見ていた夢を思い出し、
ジェイドは目を指先で擦った。
指先についたのは、涙と、乾いた後の白い粉。
寝てしまえばあの時の夢を必ず見る。
伸ばした手が届く事のなかったあの時の、
自分の目の前で美しく微笑みながら彼が消えていったあの時の夢を。
その夢を見たくなくて、睡眠を取らなくなった。
だが体は疲弊しきっていて。
仕事をしている最中に今のように眠りに落ちてしまう。
そしてまた、あの時の夢を見るのだ。
そして自分は、その度に涙を流しているのだ。
愛した人を助けられなかったという
悲しみに。
怒りに。
情けなさに。
自分は結局無力で。
自分の手は何も掴む事ができなかった。
何も助ける事ができなかった。
「っ…!!!」
ダンッ!!!
机を拳で叩く。
大きな音が部屋に響き、
その衝撃で机の上にあったペンが転がり、落ちる。
カツン、とペンが床にぶつかる音が静寂に包まれた部屋に木霊した。
『ジェイド』
「…!?」
顔を上げる。
そこには、以前のように笑う彼の姿。
落ちたペンをこちらに差し出し、自分の名を呼ぶ。
「ガ、イ…」
ゆっくりと、恐る恐る手を伸ばす。
彼は笑って私の手が届くのを待っている。
やっと、やっと彼に手が届く…。
けれど、その瞬間。
「…!」
目の前の彼は、
跡形もなく消えた。
残るのは、足元に転がっている一本のペン。
「幻覚…」
自分の思いが見せた幻覚。
「結局、私の手は貴方には届かないんですね…」
夢のなかでも。
幻でも。
私は貴方に触れることができない。
「…っ」
乱暴に髪をかき上げ、もう済んでいる書類の束を持つ。
そして執務室の扉を開けた。
彼が目の前で消えてから
半年が経っていた。
外はいつもの如く晴れ渡っていて、眩しいくらいだった。
彼がいなくなってからもグランコクマは何も変わらず日々を過ぎていって。
まるで何も無かったかのようだ。
以前のように綺麗な空、澄み切った水。
笑い合う人々、走り回る子供。
何も変わっていない。
只、彼だけがいない。
彼が消え、自分は確実におかしくなった。
自分でもわかっているのだ。
人の前では全く感情が湧かなくて、無表情で。
けれど一人になると情緒不安定になり、涙を流し、
怒りに任せて物に当たる。
以前の自分なら考えられないことだ。
そして陛下も、変わった。
周りの者に心配をかけさせないようにと普段通りにしているのだろうが、
笑った顔にはどこか翳りがあり、
時折、泣きそうな顔を見せる。
「ガイ…貴方は何処に行ってしまったのですか…」
消えて半年。
未だに彼の墓標は無い。
死んだと信じられないのだ。
かつて、ルークは戻って来た。
私たちのもとに。
だから彼も、
ガイも。
戻ってくるのではないかと、心のどこかで思っている。
ありえる筈が無いのに。
ルークと違ってガイは、
確実に消えたのだ。
乖離したのだ。
その瞬間を目の前で自分は見た。
けれど、戻ってくると。
…いや、違う。
戻って来てほしいと、願っているのだ。
「ジェイド少将…!!」
慌てた様子で自分の名を呼ばれ、思考が途切れた。
向かい側から走ってくる軍人。
確か、宮殿の警備を担当している男だ。
「どうしたんです」
「急いで、謁見の間に…!」
本当に急いできたらしく、息を切らしながら、喋る。
その慌てた様子に何か只ならぬ事態が起きたのかと
僅かに緊張が走った。
「何があったのですか」
「あ、あの方が…お戻りに…!」
全てを聞いた後、
私の足は謁見の間へと駆け出していた。
装飾の施された扉を、走って来た勢いのまま、押し開けた。
バンッと大きな音が辺りに響く。
謁見の間。
そこには多くの軍人、貴族がいた。
全員の目が自分に向けられる。
奥には玉座に座る陛下の姿。
そして。
「ガ、イ…?」
半年振りに見る、後姿。
白い衣服に、金髪。
見間違えるわけがない。
彼のことを。
ゆっくりと、彼が振り向く。
青い瞳と、目が合った。
「久しぶり、ジェイド」
あの時のように、微笑む彼が、
ガイの姿があった。
これは現実なのか。
これは幻覚ではないのか。
夢ではないのか。
いや、何でもいい。
兎も角、彼が消える前に掴まえなくては。
その腕を掴まなくては…!
持っていた書類を投げ出して彼のもとへ走る。
夢とは違って、足はとても軽かった。
彼にもう、手が届く―――
指先が、彼の腕に触れた。
手に触れる感触。
骨ばった、細い腕。
ずっと、掴みたかったそれ。
それをきつく握って、引き寄せた。
腕の中に収まる、彼の体。
夢じゃない。
幻覚じゃない。
本物だ…!
彼の匂い、体温。
全てに涙が出そうになる。
「やっと、掴めた…」
もう消えないようにと、強く抱き締めた。
「ただいま。ジェイド」
鼓膜を震わす声。
ずっと、ずっと、
待っていた言葉。
「おかえりなさい。ガイ…」
笑ってただいま、と言うから、
自分も笑っておかえりなさいと言って。
そして。
人目もはばからず、
ガイに口付けた。