貴方の全てに狂ってる
『早く君から手を伸ばしてよ』
朝の忙しない空気の中、ゆったりと歩き、家へと向かう。
その容姿と服装からか、周りの人間が視線を向けてくるが、
もう慣れたもので、微塵も気にせず歩を進める。
かなり久しぶりに家に帰り、良守に会って、
会話を交わしてから三日が経っていた。
この三日間、正守は仕事が入り、家に帰っていない。
…仕事が入り、というか入れた、のだが。
予想通り、久々に帰ってきた兄に対して素っ気無かった良守を見て、
少し焦らした方が良さそうだと判断し、自ら仕事を入れた。
久々に帰ってきたと思ったのに、すぐに仕事に行ってしまい、
三日間帰って来ない兄。
どのくらい効果があるかはわからないが、
そこそこ良守の心を揺さぶることはできたんじゃないだろうか。
「急いで手を伸ばしたら鳥は逃げちゃうからね」
呟き、笑みを零す。
そう、慌ててはいけない。
ゆっくり、じっくり、相手が懐いてくるように、
自ら近付いてくるように仕向けなくては。
我慢できず、手を途中で伸ばしてしまえば
鳥は驚いて、たちまち空へ逃げていってしまう。
鳥を鳥篭に入れるには、まだ早い。
今は良守の意識をこっちに向けさせることが先決だ。
ああ、早くあの美しい鳥が欲しくて仕様がない。
「ただいまー…」
「おわぁっ!?」
ガラ、と戸を開けると、そこには先程から考えていた少女の姿。
どうやら、これから学校に行くようだ。
セーラー服に身を包み、鞄を持つその姿が、
可愛らしくて、愛しくて、堪らない。
いきなり現れた兄の姿に良守は驚き目を大きくしていたが、
すぐいつもの調子に戻って正守を睨みつける。
「今までどこ行ってたんだよ」
「何、寂しかったの?」
その一言に、良守の顔は赤く染まっていく。
そんな良守を見て、正守は心の中で黒い笑みを零した。
予想よりも効果があったようだな。
帰ってきた兄が、三日帰って来なかったというだけで、
良守は明らかに兄を意識していた。
「さ、寂しくなんかないっ!」
必死に赤い顔で否定する良守が本当に可愛くて。
捕らえてしまいたくなるけれど、
今はまだ、その時ではない。
軽く笑って、流す。
そして、家の空気がいつもと違う事に気付く。
「あれ?皆は?」
家から人の気配がしない。
良守は正守から視線を外し、
唇を僅かに尖らせながら喋る。
「じじいは、いつもの集まりで旅行、父さんは打ち合わせで泊り掛け、
因みに利守は今日、友達の家に泊まってくるって」
と、いうことは。
「じゃあ、今夜は誰もいないの?」
こくりと頷く少女。
これは好都合だ。
思わず笑いそうになるのを堪える。
これほどの好都合な状況はこの先なかなか無いだろう。
今夜、一つ罠を仕掛けてみるか。
鳥を手に入れるための罠を。
「…?兄貴?」
突然黙り込んだ正守を不思議に思ったのか、
黒い目で見つめてくる良守。
その可愛らしい顔に、にこりと微笑み、
昔のように頭を撫でる。
「なんでもない。これから学校なんだろ?いってらっしゃい」
そう言って、昔したように、
身を屈めて、うっすらと赤い頬に口付けた。
ちゅっと軽い音をたてて離れる唇。
「…っ、な、ななっ…!」
口付けられた頬を手で抑え、言葉も出ない程動揺する。
その顔は先程とは比べ物にならない程、真っ赤だ。
ああ、本当に可愛い。
今すぐその唇に貪りつきたい。
「何すんだよ!クソ兄貴!!」
少女の大きな声が、辺りに響く。
耳まで真っ赤にして、瞳を潤ませて睨みつけてくる。
正守の方が背が高いので上目遣いにしかなってないのだが。
「何って、いってらっしゃいのキス。小さい頃よくしてただろ?」
小さい頃の良守は本当に絵に描いたようなお兄ちゃんっ子で。
幼稚園に行く時も、お兄ちゃんと離れたくないと、
毎朝駄々をこねて泣いていた。
仕方なく正守が小さな体を抱き締めて、赤い頬に口付けてあげれば、
不思議と泣き止んで。
それ以来、毎朝正守は良守にいってらっしゃいのキスをした。
良守からも「にーちゃ、いってらっしゃいのキスは?」と、せがんでくるくらいだった。
そんな過去を思い出したのか、良守は益々顔を赤くして。
「し、知らねぇっ!行ってくるっ!!」
逃げるように、走って家から出て行った。
「首尾は上々、かな」
開けっ放しの戸を閉め、誰もいない家にあがる。
一人になった途端、おかしくて嬉しくて、
笑いが込み上げてきた。
我慢しきれず、喉を震わせて笑う。
なんて楽しいんだ。
恋とはこんなにも楽しいものなのか。
相手の一挙一動にこんなにも心が躍る。
欲望が疼き出す。
他の人間が見たら、こんなのは恋とは言わない、
只の狂気だ、と言うだろう。
けれど、これは恋なのだ。
俺は今、恋の駆け引きをしているのだ。
青春真っ只中の学生がするのと同じような恋を。
ただ俺は、それよりも少し狡猾なだけだ。
「…いや、かなり、かな」
クク、とまた笑い、ちらりと家の時計に目をやった。
「帰り、迎えに行くとするか」
良守はかなり自分を意識している。
ここでもう一押しして損はないだろう。
鳥が自ら鳥篭に飛び込んでくるまで
あと少し。