想いの果てに
『そうやって貴方は私の首を真綿で絞めるんだね』
いつもと変わらぬ休日の昼。
全員が各々の用事で外出し、兄貴もいつもの如く仕事から帰ってきていない。
家には自分一人だった。
縁側に座り、青い空を見上げる。
心地良い陽気に心が安らいでいく。
このままこの暖かさに包まれて眠りにつきたい。
永遠の眠りに。
ふ、と自分の思考の馬鹿馬鹿しさを鼻で笑い、
空を見上げたまま、自分の左側に置いてあった湯飲みに手をやろうとする。
けれどその手は湯飲みに当たらず、床に当たった。
「…?」
自分の左側を見る。
そこに置いた筈の湯飲みは無かった。
代わりにあったのは大きな足。
夜へと代わろうとしている空のような、深い青の着物が視線の端に映る。
「…っ」
その人物が誰だかわかった途端、心臓が少し早く鳴り始めた。
ゆっくりと、その着物の上を這うように視線を上げる。
そこには想像していた通りの人物が薄い笑みを貼り付け、
湯飲みを持って立っていた。
「…帰ってきたのかよ」
「うん、ついさっきね」
気配を絶っていたのか、それとも俺が気を抜きすぎていたのか。
全く気付かなかった。
騒ぎ出す心臓に気付かない振りをして、
いつも通り振舞おうと、取られた湯飲みに手を伸ばす。
が、正守は良守の手が届く寸前で湯飲みを上に掲げた。
広がった湯飲みとの距離。
「何すんだよ」
昔の、幼くて何も知らなかった頃の自分ならば
大声で正守にくいかかっていたいただろう。
けれど全てを知ってしまった、21歳の俺は、
そんな風には出来ない。
ただ、何も無いかのように演技をするのが精一杯で。
そして演技をする度に、心は軋む。
「良守さ、今暇?」
見ればわかるだろう質問を、笑顔で聞く。
お前のその笑みが俺を苦しめる。
「…見ればわかるだろ」
「じゃあさ、デートしない?」
一瞬思考が止まった。
何で憎んでいる相手を誘うんだ?
一緒にいたくなんて無い筈なのに。
そして気付く。
ああ、そっか。
俺が苦しむところを見たいのか。
俺を抱く時のように、苦しむところを見て楽しみたいのだ。
俺が苦しむ事で兄貴が喜ぶんなら、
構わない。
承諾の意味で立ち上がる。
昔より成長したとはいえ、兄貴の身長には届かなかった俺は、
下から兄貴の目を見る。
「デートっていうのは奥さんに使う言葉だろ。
…俺とは只の散歩、だろ」
「俺はデートのつもりで誘ったんだけど?」
こうやって貴方はいとも簡単に
俺を苦しめる。
連れて行かれた店は最近出来たばかりの
雑貨屋と喫茶店が合わさった店だった。
茶系で統一された、どこか異国の雰囲気が漂う店で、
店内も騒がしくなく、落ち着く空間だった。
店員に案内された席につき、メニューを開く。
「メロンクリームソーダ一つ。良守は?」
「…ガトーショコラとレモンティー」
大人の男二人で喫茶店、という時点でおかしいのに、
和服で坊主頭の男はメロンクリームソーダ、
もう一人の男はケーキを注文。
…絶対おかしいと思われてる…。
そこらへんのファースフードの店にすればいいのに、
何でよりにもよってこんなお洒落な店に…。
居た堪れなくて、下を向く。
店員は注文されたものをメモって店の奥へと消えていった。
「この店、オープンしたばかりだって聞いたからさ、良守を連れて行きたくて」
向かい側に座った男がそう言って笑う。
貴方の言う言葉にはどれだけの棘があるんだろうか。
どれだけ私を締め上げれば気が済むんだろうか。
いや、気が済む、なんてことはないのだろう。
だって俺は
生まれた時から兄貴を苦しめ続けてきたのだから。
それを考えればこんなもの。
兄貴の苦しみを考えればこんなもの、
足りないくらいだ…。
「…次は奥さんと彰守を連れて行けよ」
「考えとくよ」
少しして、注文したメニューがテーブルの上に置かれた。
届けられた紅茶にレモンを浮かべ、砂糖を入れる。
目の前の男はメロンソーダの上に乗せられている
バニラアイスをスプーンで掬い、食べていた。
「良守はさ、夢とかある?」
砂糖を溶かし終わって、ガトーショコラを口に入れた瞬間に問われ、
俺は口を動かしながら眉を顰めた。
口の中ではガトーショコラの程好いチョコの甘味が広がる。
「なんだよ、いきなり」
「只の好奇心だよ。で、あるの?」
夢。
もう、俺には子供の頃のように「ケーキ屋さん!」と無邪気に言えなくなっている。
そのぐらい現実を見てきた。
知らなくてもいいものを知った。
…夢という綺麗なものを語れないような存在になってしまった。
夢見ているもの。
夢にまで見ているもの。
只一つだけあるけれど、
それは決して叶わぬもので、
でも渇望して止まないもので。
それを知ったら貴方はどうする?
いや、もう知っていて敢えて訊いているのか。
「…ねぇよ、夢なんて」
夢、なんて綺麗な言葉で言えるものではない。
『貴方が、欲しい』
「俺はね、あるよ。夢」
「兄貴が…?」
兄貴の口から夢なんてものが語られるとは思っていなかった。
現実主義の兄が夢を持っているなんて、考えられなかった。
どうやら、顔に考えが出てしまっていたらしく、
兄貴は喉を震わせて笑い、「ひどいなぁ」と言った。
「俺だって人間なんだからさ、人並みに夢とかあるよ」
「なんだよ、兄貴の夢って」
俺はあまりに兄貴のことについて知らない。
兄貴の考えてることなんて微塵もわかっていない。
だから、兄貴の夢というものが気になった。
兄貴が夢にまで見ているものが。
ケーキを食べるのを止め、兄貴の深くて暗い、瞳を見つめる。
ふ、とその目が細められた。
「秘密」
「…は?」
ここまで言っといて秘密かよ!
一気に気が抜けて、俺はケーキを食べるのを再開した。
「今は言えないよ。いずれ教えてあげる。良守」
ケーキも食べ終わり、兄貴が奢ってくれるというので、
さっさと店から出た。
兄貴は会計を済ませているので、店の外には一人。
少しだけオレンジがかった空。
それを見上げ、考える。
兄貴に話し掛けられたり、優しくされると、
苦しい。息が止まりそうになるくらい苦しい。
けれど同じくらい、嬉しいのだ。
表裏一体。
対照的なものが俺の体の中でぐるぐると回る。
自分自身がわからなくなってくる。
「はい、良守」
突然、視界を遮るように目の前に差し出された小さな紙袋。
思わずそれを手に取る。
中でチャリ、と金属の音がした。
「何?」
「ん?開けてみな」
楽しそうに笑う兄貴に促され、紙袋を開ける。
指を入れて取り出してみれば、それは
小さな青い石が何個も付いているストラップだった。
「え…」
「小物も売っていたから買ってきたんだ。携帯に付けなよ」
良守の携帯にはストラップ付いてなかっただろ?と訊いてきたので、
こくりと頷く。
何かが、込み上げてくるのを感じた。
「…なんで…」
「デートしたら何かプレゼントするもんだろ?」
笑って、兄貴は帰りの道に進んでいった。
俺はその数歩後ろから付いていく。
手の中のストラップが滲んで見えた。
兄貴、好きだ。
凄い、好きだ。
だから、俺は決めたよ。
自分の為に、
兄貴の為に。
俺は家を出る。
兄貴を苦しめ続けることしかできない俺はいなくなった方がいいんだ。
兄貴の傍にずっといたいけど、
この兄貴がくれた最初で最後のプレゼントがあるから。
それだけでもう充分だ。
前を向く。
大きな背中が涙で揺らいで見えた。
それは彰守の儀式の日が
前日に迫った日のことだった。