想いの果てに
『冗談に出来る程度の思いだったらどんなに良かったか』
方印が書かれた黒い装束に身を包む。
毎日着ているものだが、今日で最後なのだと思うと少し感慨深いものがある。
不思議なものだなぁ、と少し、笑った。
俺は今日、家を出る。
「良おじちゃん、準備出来たよー」
後ろを見れば、甥の彰守が黒い装束を身に纏い、天穴を持って待っていた。
「そうか、悪いけど玄関の前で待っててくれるか?」
「うん、わかったー」
素直に部屋から出て行く甥の背中を見てから
机の上に置いてある携帯に手をやった。
チャリと金属の音がして手の中に携帯が収まる。
ストラップが闇の中、キラリと光った。
「……」
無言で、携帯を持ち上げ、額に当てた。
そして瞳を閉じる。
今日で最後だ。
全てが終わる。
彰守に術を教えることも。
烏森に行くことも。
妖を退治することも。
兄貴と会うことも。
目の奥が熱くなった気がしたけれど、
気の所為だ。
携帯を懐に入れ、部屋を出る。
闇が、いつもより静かに感じられた。
廊下に一歩出ればキシ、と床が鳴る。
この家とも今日でお別れかぁ…。
噛み締めるように一歩一歩歩く。
その時だった。
「良守」
低く、静かな声に呼び止められる。
その声だけで、俺の心臓はいつもざわつく。
「兄貴…」
この闇のような瞳が俺を射抜く。
「最後のお勤め、だな」
「ああ」
そう、明日になれば彰守が一人で烏森に行くことになる。
…その前に俺は家を出るけれども。
そのことは誰も、兄貴も知らない。
「彰守は兄貴に似て凄い結界師だから、一人でも平気だよ」
「そうか?彰守は俺よりお前に似ているよ」
優しい性格も、満ち溢れた才能も。
そう言う兄貴に、俺は笑った。
嘘。
優しい嘘。
俺に才能なんてなかった。
兄貴の兄元にも及ばなかった。
まだ才能があれば、方印が出た俺を少しは好きになってくれたのかもな。
毎日見る、光景。
兄貴の傍にいる奥さんが羨ましかった。
俺も当たり前のように兄貴の隣に立っていたかった。
兄貴に愛されている彰守が羨ましかった。
方印を持っている俺も、愛されたかった。
俺のような感情じゃなくても、せめて『弟』として、愛して欲しかった。
7年間、こんなにもお前を想っていたこと、知らなかっただろ?
お前が思っていた以上に俺は、
お前が好きだったよ。
「今日は、ありがとな」
デートに誘ってくれて。
プレゼントをくれて。
笑ってそう言えば、兄貴の目は見開かれて。
「どうしたんだ、いきなり」
いつもはそんなこと、素直に言ったりしないから驚いているんだろう。
今日ぐらいは素直にいさせてくれよ。
最後、なんだからさ。
最後だから、
だから。
俺の想いを告げることも許してくれ。
不思議なくらい、心臓は静かで、
心は穏やかだった。
兄貴の肩を掴み、爪先で立つ。
そして。
「…!?」
軽く、触れるだけの
キスをした。
「好きだよ、兄貴」
これ以上ないくらい、目を大きく見開いて俺を凝視する。
ああ、こんな兄貴の顔、見たことがないな。
これから先も見ることはないんだろうけど。
告白し、口付けた後になって、俺は怖くなった。
兄貴から告げられるであろう言葉が、怖かった。
なんて言う?
こんな弟に対して。
俺は嫌いだ、って?
気持ち悪い、かな。
それとも言葉には出さずに、軽蔑の、嫌悪の目で見てくるかな。
俺はひどい臆病者だ。
どれも怖くて仕方が無いんだ。
兄貴が俺のことを憎んでいるのは知っているのに。
兄貴の口がゆっくりと開かれる。
嫌だ。
嫌だ。
聞きたくない…!
「ハハ、今のは冗談だよ。いきなりごめん。俺、行ってくるわ!」
笑って、冗談にして、逃げるしかなかった。
「良守っ、待て…!」
急いで玄関から出る。
ずっと、ずっと抱いていた、本当の想いを、
冗談にするしか、なかった。
目の奥が熱いのは、今度は気の所為なんかじゃない。
けれど、泣いてはいけない。
外では彰守が待っているから。
泣いてはいけない。
全て自業自得なのだから。
あぁ、最後なのに兄貴に嫌な思いをさせてしまった。
嫌いな相手からキスされるなんて、
吐き気がする程嫌に決まってる。
ごめんな、兄貴。
俺は出来の良い弟になれなかった。
俺は兄貴の性欲処理の玩具にもなりきることが出来なかった。
俺は兄貴にとって無価値な、いや、それどころか
目障りで疎ましい存在にしかなれなかった。
ごめん。
ごめんなさい。
何回謝っても足りないのは知っている。
本当は、兄貴に直接謝りたかった。
こんな弟でごめんなさいって。
生まれてきてごめんなさいって。
もう二度と兄貴の前には姿を見せないようにするから。
彰守。
どうか、俺みたいな結界師にはなってくれるなよ。
弱くて、兄貴を苦しめることしかできないような人間になってくれるなよ。
お前なら兄貴を喜ばす事ができるから。
だから、兄貴の事頼むな。
立派な結界師とならんことを。
立派な兄貴の息子とならんことを、祈るよ。
兄貴。
俺がいなくなって、幸せになることを。
兄貴が笑う事を。
願うよ。
「良おじちゃん、何処か痛いの…?悲しいの…?」
外に出て、結局、涙は流れてしまって。
心配して伸ばされた方印のある手を、強く、俺は握った。
「違うよ。これは、嬉しくて泣いているんだよ」
そう。
俺は嬉しくて泣いているのだ。
漸く苦しみから、憎しみから解放されて、
笑って、幸せに日々を過ごすだろう兄貴が嬉しくて、嬉しくて。
だから、泣いているんだ。
兄貴、どうか
俺の分まで、
今までの分まで、
幸せに。
その日、墨村良守は
人知れず家を出た。
正守宛の文を残して。